FC PHOENIXも昨年は延べ約500名が現地観戦に訪れてくれるようになりました。
これからもっと大きくなり、自分たちの成したいビジョンをより多くの人に応援してもらいたいと思います。
今回は自分自身について少し書こうと思いますが、長いので今回は高校までの前半パートにします。
PHOENIXにはスクール生も多く所属しているので参考までに読んでもらえたら良いなと思います。
とにかくサッカーが楽しかった小学生時代
仙台に住んでいた頃、兄の影響で小1で地元のサッカークラブに体験に行きました。
元々何でも最初から上手くできるようなタイプではなく、サッカーもご多分に漏れず最初は上手くなかったと思います。
ただ下手ではあるけど、凄く楽しくて両親にやりたいと言ってサッカーを始めるようになりました。
そこからずっと友達とサッカー漬けになり、歳上の人とサッカーをすることが当たり前だったこともあり、メキメキと上達していきました。
2年生の時には4つ飛び級して6年生の試合に出たりもしていました。僕の全盛期です。笑
今も変わっていませんが、猛烈に負けず嫌いだった僕は、とにかくサッカーが上手くなりたくて、
親が買ってきてくれたセリエAのビデオを兄と擦り切れるほど観たり、チームメイトに怒鳴り散らかしたり、
リフティングで目標回数が達成できなければご飯も食べずに泣きながら公園で1人でリフティングし続けていました。
(読んでいるかスクール生!笑)
4年生からは横浜に引越し、バディSCという非常に強いクラブに入り、厳しい環境の中でも続けて成長し、最後に神奈川県大会を優勝することができました。
とにかく苦しんだ中学生時代
Jクラブの下部組織に進む人もいる中で、僕は兄と同じ東急Sレイエスというクラブに進むことにしました。
そこでも素晴らしいコーチたちから指導して頂き、よりサッカーが上手くなった実感はありました。
ただそれ以上にこのクラブでは苦しい経験が多かったです。
端的に言うと、身長が全然伸びず、足が速い方だったのにどんどん遅い方になり、ぶつかり合いでは勝てないようになっていきました。
そうなるとプレーに対しての自信を失い、自分自身にも自信を失い、毎回の練習が苦しくなりました。
試合にも出れない状況にもなり、クラブを辞めようと親やコーチに相談したこともありました。
そんな苦しい中学生時代でしたが、サッカーを嫌いになることはなかったし、今では辞めなくて本当に良かったと思います。
成長期は個人差が出やすく、体格が影響するスポーツでは僕のようなケースがよくあると思いますが、
苦しくても競技自体は好きであり続けてほしいなと思います。
高校で恩師と出会う
そして高校では神奈川県立の弥栄高校に入学しました。
クラブチームとは異なり、大雑把な練習や個人戦術を知らないでサッカーをやってきた人たちも多く、
また先輩からの謎の教育もたくさん受けさせて頂きました。笑
トップチームに関わっていた時に監督と一度戦術のことで合わなくなり、Bチームに落とされることがありました。
完全に不貞腐れていた時に、元川崎フロンターレで日本代表だった箕輪義信さんと出会いました。
弥栄高校のOBであった箕輪さんがコンサドーレでアキレス腱の怪我をしたリハビリの一環でサッカー部の練習に参加してくれていました。
そこで箕輪さんのトレーニングに励む姿勢や、高校生である僕たちに対しての誠実な接し方を見て感動したことを覚えています。
ある時、不貞腐れていた自分の現状を箕輪さんに相談した時、
手段は「環境を変える」か「自分が変わる」の2つしかないというアドバイスを受け、自分が変わる決心をしました。
まず周りの環境に不満を言うのではなく、トップチームを外から見た時にどのポジション、プレースタイルの選手が不足しているのか考えました。
その結果、それまでセンターバックをやっていましたが、勝手に自分のポジションをアンカーにコンバートしました。
監督がその姿勢を見てくれていて、結果的に選手権までにはレギュラーに戻ることができました。
高校では、チームとして何が必要か考えることが重要であること、周りの環境を言い訳にせず努力することを学ぶことができました。
次回予告
次回は後半パートで、大学以降について書きます。